エリカが例えてあげる 映画 『真珠の耳飾りの少女』

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2003年のイギリス・ルクセンブルク制作。100分。
(原題Girl with a Pearl Earring)
この映画の評価は高いようだ。
もし私がこの映画を褒め、良い映画だと断言することによって
大きな様々なメリットを得るならば、大いに褒め称えたいと思う。
(白を黒だと言い張っても良い)
しかし、私はこの映画を良いと褒めても
メリットは一切無いので、本心のままに評価したい。

私には全く合わない映画である。
私はこの映画を人に薦めることは出来ない。
ストーリー展開以外は、映画としては考えれば良い映画だろう。
17世紀のオランダが見事に再現されており、
召使の少女、フェルメール、妻、フェルメールの娘、
召使のおばちゃん、肉屋のあんちゃん、パトロンなど、
配役はぴったりで、フェルメールの絵の通りだ。
見方を変えれば、雇用者と使用人という階級差を
露骨にあからさまに描いたと言えばそう言えるだろうし、
この映画は全編リアリズムに徹しており、一切妥協はしていない。

しかし物語はハッピーエンドではないので、
見終っても楽しい気分になれず、モヤモヤするものが残ってしまった。
(人を苛めて喜ぶ陰険でサド傾向の人間には良い映画かも知れない)
まるで「小公女セーラ」のように、いじめのシーンが満載だし、
召使の少女が可哀想になった。
(まあ可哀想と思う考え自体がこの時代では間違っていると思うがね)
おしん」とか「渡る世間は鬼ばかり」みたいで、
脚本は橋田壽賀子が書いているんじゃないかと思ったほど(では無いけど)。
フランダースの犬のアニメで銅像が出来たように、
この物語をアニメ化されるならば、フェルメール銅像ではなく、
召使の少女の銅像が建ち、こんなことをする
オランダ人は酷い奴だと非難GOGOだろう。
いつエリカが出てきて、「エリカが例えてあげる」って
言い出すのかとビクビクしていた。
エリカが夜空に輝く満天のお星様なら、あんたは味噌汁のダシに使う煮干様。
エリカが輝くダイヤモンドなら、あんたはその辺の道に転がって踏まれるだけの石ころ。
エリカがフランス料理なら、あんたは、ねこまんま
エリカがビーナスなら、あんたはただのナス。
エリカが優雅に舞う白鳥なら、あんたはゴミ箱を漁るカラス。
エリカが舞台で輝くプリマドンナなら、あんたはその舞台に投げられる紙テープ。
エリカが豪華客船クィーンエリザベス号なら、あんたは三途の川を渡る泥舟。
定番と言える、櫛が無くなったとは言っては、「盗んだのはお前だろう」と妻には言われ、
「夫とコソコソと泥棒猫のように乳繰り合っているのは、お前だろう」と、また妻に疑われ、
「何故、この女を描いて、私を描かないのか?」とまた妻は激怒する。
(1970年代の少女漫画だったら靴に画鋲をしこたま入れられていることだろう)
まあ、どう見ても中年の女よりは、若い娘の方が描きたくなるだろう。
もし、あの絵のタイトルが、「真珠の耳飾りの(中年)女」だったら、
ここまで、今評価されているだろうか?

最初から最後まで、召使の少女は、高飛車で陰険陰湿な姑と
妻と娘にネチネチといびられまくりだし、フェルメールパトロンには言い寄られ、
手篭めにされそうになるわで、「小公女セーラ」にはまだ救いがあるが、
この映画の物語には救いは描かれていない。
フェルメール自体、謎の多い画家なので、どんな物語でも作れるといえば、
作れるのだろうが、もっと楽しい話にして欲しかった。
まあフェルメール自体、昨今いやにTVに取り上げるので、
食傷気味だ。私は多分、フェルメールは召使などを
描いたのではなく、普通に考えて、描きやすい、また心の通じる、
自分の娘を描いただけと思うし、そこまであの絵には
深い物語も秘密もエロスもなく、ただの描写に過ぎないと思う。
売らんが為の奇を衒うばかりの新説や学説には、正直飽き飽きしている。

召使女の手を出すというのはよくありがちな話だが、
フェルメールの人生から言って、彼はそこまで要領の良い男だと思えない。
もし、そんなに要領が良い男だったら、パトロンも多くいて、
もっと多作で、金銭的に困ることも無く、忘れられた画家ではなかったはずだ。
彼は絵を描くことは優れているが、世渡りはピカソレベルまで上手くない。
彼はピカソの様に、絵を数売ればいいやと、
ただの売り物の商品として認識していたのではなく、
生き方が不器用な職人肌の画家だったのだろう。
最後にやはり恒例のことだが、使用言語が英語なのは良くない。
ただ時代考証はよく出来ている。
置かれている本は時代にあったべラム装だし、ガラスも時代に合っているし、
ヴァージナルも時代に合っているし、これで使用言語がオランダ語だったら、
尚良い出来になったろう。