昔、TVで見た、邦画で印象に今でも残る映画がある。
その映画はATG製作の『サード』である。
劇場で見たのではなく、TVで見た。
その昔、東京12chでは、土曜の10時から(だったと思うが)
日本映画番組を放映していた。
(昔から12chは独自路線である)
その番組で、映画『サード』に出会ったのであった。
1980年代初頭、私が高校の時だったと思う。
その映画はATG製作の『サード』である。
劇場で見たのではなく、TVで見た。
その昔、東京12chでは、土曜の10時から(だったと思うが)
日本映画番組を放映していた。
(昔から12chは独自路線である)
その番組で、映画『サード』に出会ったのであった。
1980年代初頭、私が高校の時だったと思う。
映画『サード』は高校生が主役であり、
同年代であった私にとり、身近で有ったし、
また性を扱う話でも有るので、興味津々で有った。
図書室での性交、それに女子高生による売春など、
当時は衝撃的な内容であった。
同年代であった私にとり、身近で有ったし、
また性を扱う話でも有るので、興味津々で有った。
図書室での性交、それに女子高生による売春など、
当時は衝撃的な内容であった。
この映画に出演している、
森下愛子は、今では忘れられてしまったが、
この当時は、まだ新進の女優であった。
私も年を取り、サザエさんの年齢を超え、
マスオさんの年齢を超え、バカボンのパパの年齢に
近づきつつあるが、私にも若い時が有ったのである。
サードに出演した森下愛子は20歳位だったはずで、
高校生からみる、3~5歳年上の20歳は
とても大人に見えたものである。
もうすっかり大人で、大人の女性と思ったものである。
森下愛子は、今では忘れられてしまったが、
この当時は、まだ新進の女優であった。
私も年を取り、サザエさんの年齢を超え、
マスオさんの年齢を超え、バカボンのパパの年齢に
近づきつつあるが、私にも若い時が有ったのである。
サードに出演した森下愛子は20歳位だったはずで、
高校生からみる、3~5歳年上の20歳は
とても大人に見えたものである。
もうすっかり大人で、大人の女性と思ったものである。
幼稚園の時は、小学生のおねえさんが大人にみえ・・・。
小学生の頃は、中学生のおねえさんが大人にみえ・・・。
中学生の頃は、高校生のおねえさんが大人にみえ・・・。
(2005年8月18日記事投稿)
小学生の頃は、中学生のおねえさんが大人にみえ・・・。
中学生の頃は、高校生のおねえさんが大人にみえ・・・。
(2005年8月18日記事投稿)
本映画の、この圧倒的な暗さというのは、現実というか、リアルさだろう。
映画自体は架空かも知れないが、類似の事件は現に起きている。
この当時、円光という言葉は無かったが、言葉自体は無くとも
その行為というのは有った訳だし、その行為は人類が誕生してから
一日として欠かすこと無く、いつでもどこでも存在し続ける。
出てくる中年のオヤジは、典型的な円光オヤジとして、描かれ、
何もかも嫌らしい。初めて見たのが、子供の頃だったから判らなかったし、
興味も無かったが、ヤクザは峰岸徹が演じている。彼は適役だ。
彼は岡田有希子の事例を持っても判るように、
小娘を転がす中年のオヤジ役としては正に適役である。
彼は中年オヤジ(或いはヤクザ)特有の狡猾さ、嫌らしさ、
嫌悪感を催すようなクズさを見事に表現している。
森下愛子にしても永島敏行にしても峰岸徹にしても正に適役。
この役者しか演じられない。
ATGの持つ、この独特の暗さは何だろう。
また寺山修司の泥臭さ(田舎臭さ、東北臭さ)はこの映画にとても合っている。
寺山の対極が澁澤だと思うが、私はどっちも好きではない。
彼らは奇を衒いすぎだ。その狙いすぎの計算づくの嫌らしさは好きじゃない。
最近は本映画にしても他の古い邦画にしても放映されることは
全く無くなった。本当に残念である。
近年の下らん、唾棄すべき、軽薄なだけの邦画なんぞを放映するより
本映画を放映して欲しいものである。
映画自体は架空かも知れないが、類似の事件は現に起きている。
この当時、円光という言葉は無かったが、言葉自体は無くとも
その行為というのは有った訳だし、その行為は人類が誕生してから
一日として欠かすこと無く、いつでもどこでも存在し続ける。
出てくる中年のオヤジは、典型的な円光オヤジとして、描かれ、
何もかも嫌らしい。初めて見たのが、子供の頃だったから判らなかったし、
興味も無かったが、ヤクザは峰岸徹が演じている。彼は適役だ。
彼は岡田有希子の事例を持っても判るように、
小娘を転がす中年のオヤジ役としては正に適役である。
彼は中年オヤジ(或いはヤクザ)特有の狡猾さ、嫌らしさ、
嫌悪感を催すようなクズさを見事に表現している。
森下愛子にしても永島敏行にしても峰岸徹にしても正に適役。
この役者しか演じられない。
ATGの持つ、この独特の暗さは何だろう。
また寺山修司の泥臭さ(田舎臭さ、東北臭さ)はこの映画にとても合っている。
寺山の対極が澁澤だと思うが、私はどっちも好きではない。
彼らは奇を衒いすぎだ。その狙いすぎの計算づくの嫌らしさは好きじゃない。
最近は本映画にしても他の古い邦画にしても放映されることは
全く無くなった。本当に残念である。
近年の下らん、唾棄すべき、軽薄なだけの邦画なんぞを放映するより
本映画を放映して欲しいものである。