5月22日 井上 章一 著『パンツが見える』~羞恥心の現代史~ 17冊目

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つい50年ほど昔まで、たかがパンツごときでときめく男はいなかった。
何故なら、和服の女性はパンツをはいていなかったから、
ふとしたはずみでチラリ見えてしまうのはパンツなんかじゃなかった・・・。
「陰部を見られても場合によっては仕方ない」
それが戦前の女性の感覚だったはず。
だから、多くの女性店員が裾の乱れを恥、墜落死したという
白木屋ズローズ伝説」は眉唾だと説き起こす。
「パンツ」をめぐる感性の興亡を考証する、著者10年の思索の結実。
(裏表紙のレビューからの抜粋)

この本は目からウロコが落ちるような本であった。
私も長年「白木屋ズローズ伝説」を信じていた。
しかし真相は違っていたのである。
和服を着ていた時代、
まだ和服が身近なものであった時代、
パンツを履いていなかった。
代わりに腰巻を着用していた・・・。

そこにパンツを履く女が現れる。
陰部隠しである。
陰部を見られたくが無いが為に、パンツを履くのである。
だから、パンツを見られても別に恥ずかしくはない。
陰部は見られなかったのであるから・・・。
そして、男性はパンツを見ても興奮することは無かったし、
また見たいと思う対象ですらなかったのである。
「なんだ、下穿きを履いているのか・・・」
と、逆にガッカリしたのである。

これは羞恥心の現代史である。
今ではパンツを見られることは
恥ずかしいという認識になっている。
パンツを隠すのである。
パンツそのものを隠す。
パンツですら隠すものになってしまったのである。
つまり隠すものが増えてしまった事になる。
この本は見事な考察の連続である。
羞恥心が服飾の変化により、どのように変貌していったかを
念入りに丁寧に考察している。

今では考えられないことであるが、
(聞くところによれば)昔は街中の公衆の面前で、
乳房を露出して、赤ん坊にミルクを与える母親を
よく見かけたという・・・。
結局は、誰でもやる行為ならば、恥ずかしくないのであろう。
また誰もやらない(やらなくなった)行為は、
恥ずかしいという認識に繋がるのであろう。
昔、人前で化粧直しをする女は居なかったと聞く。
皆がやれば、それが普通になり、当たり前になるのだろう。
そして、それを恥ずかしいとは思わなくなっていく。
羞恥心というのは、時により服装により変化していくものである。

目次

1 白木屋ズロース伝説は、こうしてつくられた
2 パンツをはかなかったころの女たち
3 ズロースがきらわれたのは、どうしてか
4 「みだら」な女も、はいていた
5 パンチラをよろこぶ感情が、めばえるまで
6 ズロースからパンティへ
7 くろうと筋からの風俗史
8 一九五〇年代パンチラ革命説

朝日選書(朝日新聞社)2002年発行