男に依存し続けた女が自立を目指す女の為に服を作る『ココ・アヴァン・シャネル』

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女の利益は男の不利益、男の利益は女の不利益。

2009年フランス製作110分。主演オドレイ・トトゥ

本映画は(大人の事情で)随分提灯記事が多い。
大人の事情により本映画を褒めたり、
又は提灯記事を書くことによって、
大きなメリットを得るなら話は別だが、
事実そうではないので、俺は思うがままに感じた事を書く。

昔の事だが、「女の****で地球(世界)は回っている」と
どこかで小耳に挟んだ記憶がある。
****は放送禁止用語なのでここでは書けない。
フランス語では確か幾分上品に言えば、
「小さな引き出し」みたいな言い方だったと思う。
女の****を人参のように、男の前にぶら下げて
世渡りをするというのは、古今東西どこでもある事だ。
勿論、フランスでも、日本でも。

ココシャネルという女は、そんな女の武器を使い、成功し、
自分の帝国を作り上げた伝説の人物だ。
本映画はオドレイ・トトゥが辛辣で、嫌な女だが、
男がほっとかない女、ココシャネルを演じている。
20世紀初頭のフランスがよく再現されている。
特に見ごたえがあるのは、ベル・エポック特有の服、
それに装飾過多の御婦人の帽子である。
シャネルの成功の秘密、解禁というコピーがついているが、
その秘密とは、上記のような理由だろう。
第二次大戦中、ドイツ占領下において、
自分より年下のドイツ人将校を愛人(つばめ)にし、
パリ解放後、対独協力者として非難された女だ。
確かにココシャネルという女は、有る程度は才能があっただろうが、
もし彼女じゃなく、彼であったならば、ここまでは成功はしなかっただろう。
成功した一番の理由はココシャネルが「女」であったという事だろう。
どこの馬の骨かも判らない女の面倒を見る男は
確かにフランスにも日本にも世界にも存在するが、
どこの馬の骨かも判らない男の面倒を見るという人(男・女)は存在しない。
男が「行くところが無いんだ、泊めてくれないか」と言っても
100%拒否されるが、これが女だとOKされることからもそれは判る。
もし若い頃のココシャネルが泊めてって俺に言ったら、
勿論、俺は泊めるだろう。男なら誰でもOKするはずだ。

女はいつでも男に依存し、生きているものだが、
そんな典型的に依存し続けた、ココシャネルという一人の女が
(男)自立を目指す女の為に(或いはそういう大義名分を掲げた)
服を作るというのも変な話だ。
まあ、売れれば、どうでもいいんだろう。
女というのは、本質はどうであれ、そんな心地よいスローガンが大好きだから。
ココシャネルの晩年の写真を見るといかにもフランスの老女と言った感じだ。
白人は日本人よりも(思春期以降の)劣化速度が何倍も速い。
しかし晩年はすっかり老婆となってしまったが、
彼女が若い頃は、さぞかし可愛い娘、可愛い女だったと充分推測出来る。
男がほっとかない感じの女であっただろうと思う。

この映画で描かれるココシャネルは、男から見れば確かに疲れる女だ。
映画で描かれる彼女は多くの男からは決して魅力的な女ではない。
ココシャネルは辛辣にバルサンに言う。
「財産が無ければ、友達が一人もいない癖に」
確かに本当の通りだ。
その人に礼を言っているのではなく、金に礼を言っているからだ。
金持ちに変人が多いのも頷ける話だ。
しかし、バルサンは優しい男だ。
いくら目の前にココシャネル特製の人参がぶら下がっていたとしても
ここまで寛容に、ココシャネルに接するなんて、優しさにもほどがある。
余程ココシャネルの人参をいつまでも食べていたかったようだ。
バルサンには難関不落の城を落とすような、征服願望が有るんだろう。
ココシャネルと出会う男全てがそんな思いで一杯である。
ココシャネルは世界一ついている女だ。
ここまで、人を不快にさせ、思い上がった女を
ここまで面倒を見るというか、援助してくれる男達と巡り合ったのだから。

今、ココシャネルを賞賛している人も、あの当時、ココシャネルの
身近にいたら、なんて非常識な女なんだろうと賞賛はすまい。
もてる奴というのは、確かにいる。まだ若い頃の話だ。
俺が今までに出合った男にも確かに存在した。(仮にAとしておく)
Aは同性から見たら、どうしようもない男だが、
何故か、Aは女には不自由しなかったし、
彼女には何から何まで面倒を見てもらっていた。
女から金を借り、女から靴下からバックまで何でも買って貰っていた。
Aはそれが当然だと思っていたし、彼女もそう思っていた。
そう思わないのは、Aの周りにいた人だけだった。
俺は或る時、人に訊いた。「何故?どうして?」
その人は答えた。
「俺には判らない。男には判らない。きっとA特有のフェロモンみたいのが
有るんじゃないの」
そうA特有のフェロモン(魅力)みたいなものがあって、
それがそのAのフェロモンを合致する女だけを魅了するのだろう。
それはAに魅了された女しか判らないことだ。
Aと同性の俺らには到底判らないことであった。

イギリス人の金持ちボーイと黒のドレスを着て踊る時、
ココシャネルが「皆の注目の的」とか言うが、
それは良い意味じゃなく、それは勿論悪い意味で注目されているんだが。
舞踏会に黒のドレスなんて、葬式にピンクのドレスをきていくようなもんだ。
ココシャネルは相当なヘビースモーカーだったそうだが、
煙草を咥えながら、接客とは驚いた。
(まあ相手がココシャネルなんで、誰も文句は言えないだろう)
フランスに商慣習では店と客は対等だが、いくらなんでも、
創業者ココシャネル無き、今のシャネルではここまではすまい。

本映画に登場する、バルサンの屋敷に蔵書が有ったが、
バルサンは勿論読まない。
バルサンは愛書家のカテゴリーに入るかどうかは知らないが、
書斎に仮綴本を並べてはいないのは事実なので、愛書家と仮定する。
狭義だが、今、ここで述べる愛書家の蒐集する古書には前提条件があり、
刊行は遅くとも1940年代までのフランスの(挿絵本等の)限定本であり、
勿論仮綴本ではなく、装丁家に依頼した本という意味だ。
一般人はこんな疑問を持っているようだ。
何故、読まないの?良い質問だが、しかし、それは愚問だ。
フランスの愛書家が綺麗に装丁された本など読む訳が無い。
(もし仮に読むとしたら、その時点でその人は愛書家とは言えない)
仮綴はともかく綺麗に装丁されたものほど読むはずが無い。
フランスの装丁芸術が今でも有る国の愛書家が、装丁家
わざわざ注文して装丁を頼んだ本を何が悲しくて、
読まなければならないのか?逆に聞きたい。
(装丁を注文すると言っても簡単にすぐ出来る訳じゃない。
注文してから完成まで半年、或いは一年以上待つのはザラだ)
「装幀の美(同朋舎)」に掲載されている装丁本は、
全て極美で、装丁されてから百年以上経過しているものでさえも、
昨日装丁されたばかりに見える。何故綺麗なのか?
それは装丁技術の高さ、使われている素材の良さ、手入れの良さも有るが、
一番の理由は誰も読んでいないからだ。(読め読むほど劣化する)
何故読まないのか?と疑問に思う人は、是非、博物館に行って、
千利休作の茶杓や正宗作の日本刀を何故使わないのかを訊いて欲しい。
本というよりも、オブジェ、芸術家の作品と思って欲しい。
そう思わないからこそ、何故読まないのだという疑問が出てくる。
(勘違いをしている人が良く居るが、蔵書家と愛書家は根底から全く別物だ。
ひとくくりにはしないで貰いたい)