負けた奴は養分になる 映画『麻雀放浪記』Ⅰ

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懐かしい映画である。
昔、相当昔の事。まだ私が若い頃にTVで放映
していたので、見た覚えがある。
本映画の主題歌「東京の花売り娘」をこの映画で知り、
それから好きな歌の一つとなった。
俺は決して、絶対に死ぬまでギャンブルはやらない。
やろうと思った事すらない。
マージャン、花札、パツンコ、ケーリン、ケイバ、キョウテー、
ケイリン、宝くじ、ロト、トト、この世に存在する、すべての賭け事、
全てのギャンブルをやろうとしたことも無く、またやった事はない。
そのような物がこの世に存在している事だけは知っている。
何故、やらないのか?それはそこには確実性がないからだ。
もし給与生活者が二分の一の確率で、毎月の月給が、
0円か、100万か、どっちかになると言われ、
それで雇用契約を結ぶだろうか?
勿論、その確率は意図的に操作されているかも知れないし、
公平だとは絶対言い切れない場合もあると仮定する。
もし12回連続で月収100万だったら、年収に換算して1200万、
しかし年収0円かも知れない。
契約を結んでから何十年間も月給100万かも知れないし、
または逆に何十年間、収入が0円かも知れない。

確実なのは胴元だけだ。それを運営する奴だけが甘い汁を吸う。
他の奴は全て養分になる。これがギャンブルの本質だ。
文学や芸術を高尚という輩が存在する。
否、それらは俺にとって、身近に存在するものであって、
高尚とは言えない。思ったことすらない。
では、そもそも高尚の定義とは何?
俺から言わせれば、不可能への挑戦とも言うべき、
不確実性の塊のギャンブル、或いは、その概念を
追求する、ギャンブラーこそが高尚だと思う。
考えて見たまえ。
是ほど無謀な行為を平然と行なうのは、
正しく高尚だと言えるのではないかと思うのだ。
何故、そこで自分だけが勝てると思うのか?
自分こそが神だと確信するのか?
勝つという可能性が有るならば、必然負ける可能性も
有るという事だ。負けたからといって、では次こそ勝つという
可能性が有るとは限らない。負け続ける可能性もある。
負ける奴に限って、言う事は決まっている。
「今回は負けたが、次は勝つ」
否、今回も負けたが、次も負ける。
次も負ける可能性は充分有る。
永遠に養分を吸い取られる可能性は充分有る。
もしパツンコで5000円負けたと仮定する。
その5000円を取り戻して、収支はトントンだ。
そこからの時点で+5000円で、プラマイゼロだ。
果てしなく遠い道のり。プラマイゼロどころか、
そこからまた5000円負けて、合計の損失額が、
1万円になる可能性は大いに有る。
一度負けるとそこから損失分だけを取り返すだけでさえも
相当難しい。正しく泥沼。
宝くじもそうだ。こういう言い方がある。
買わないと当たらない。
否、それは違う。
正しくは「買っても当たらない」だ。
宝くじ(ギャンブル)の運営元は何も貴方を金持ちにさせたくて、
慈善事業でやっているんじゃない。
貴方に養分になって欲しいからやっている。
ギャンブルの本質は運営だけが確実に儲かる。
他の者はただの養分に過ぎない。
ギャンブルにはまるほどの無垢さ、無邪気さを持つ奴を
俺はいつも羨ましく思う。