友達と旅行に行った時の事だ。
俺らは、東北の福島のKという街を彷徨していた。
その友人がポツリとこう言った。
「東北の女は乳がデカイ!」
それを聞いて、見渡してみれば・・・。
うーん・・・すれ違う妙齢の娘さんからおばちゃんまで、
「なるほど!デカイ」(ゆっさゆっさ・・・いい日本語だな。
外国では、ゆっさゆっさに相当する言葉はあるのだろうか?)
その法則に当てはまらない事例があったが、
それは若干の誤差程度で問題にはならない。
(季節は夏であったから、乳の大きさが丸判りなのだ)
これは偉大な発見であった。
(俺的にはアルキメデスの原理よりも偉大な発見である)
彼はいろんな発見をする。
まあ、司法試験には出ないような、役に立たない知識であるが、
俺のツボに妙にハマル。
「東北の女は乳がデカイ!」
これぞ名言である。
また、ある日、彼はこう言った。
「漢字表記の風俗はハズレが多い・・・」
彼は風俗によく行っているらしいが、
そんな場所に出入りしている時、小耳に挟んだらしい。
(例えば、将軍だの御殿だの漢字列記の店名の店を指す)
これも名言である。(どこぞのおっちゃんから聞いたらしい)
私の名言というか、法則をちょっと列記。
ヤフーオークション等では、50年前の書物だから・・・とか
100年の書物だから・・・とか~前の書物にしては、
保存状態は良好だの言い訳だらけの免罪符を
言っている輩がいるが、100~200~300~400~500年を
経過してようが確実に極美本は存在する。
「免罪符、御託を並べる奴の商品に良いものを少ないように思える」
(その証拠に売れない回転すし屋のように、同じネタが”何年も”回っている。
生物なら完全に腐っているところだ)
また、すぐ調べれば判るはずの「作家や画家の来歴を
わざわざ記している輩の商品の良品無し」と思う。
そんなもの、本物のコレクターなら自分の事の様に諳んじているはず。
また、「当方何もわかりません」だの「素人」だのと(聞いてもいないのに)
きっちり書いている割には値段が妙に強気なんだな、これが・・・。
何も判らない素人だの、自分で言う割には、「いくらでも良いです」とか
「500円とか300円」とか決して言わない。
素人と言うからには、「タダ同然とか幾らでもいいです」みたいな
値段をつけるなら、筋が通っていて、矛盾が無い筈だが、
何故か、何も知らん素人が一人前どころか、
あくどい価格をつけているのをよく見かける。
そういう嫌らしい輩も良い物を持っていた試しがない。
これも法則だな。
ヤフーオークションだのアマゾン・マーケットプレイスというものが跋扈し、
坊主の念仏の様に、「初版」「初版」と妙に連呼する輩が激増した。
(いつの時代だよ。今頃かよ・・・)
ヤフーオークションだのアマゾン・マーケットプレイス等という場所を
ウロウロしている程度の輩が探している古本(否古書)に
原則として、「初版」等は関係無い。
また所詮酸性紙で印刷された本なので、何年ももたない。
集めても朽ちていくだけで意味無し。
また昔で言えば、仮面ライダーカード収集の如くに、
或いは、昔の切手ブームのように
その興味は何十年も持続しないだろう。
(白髪の生えた年までラノベや漫画を読むとは思えない)
人はいつか卒業するものだし、興味嗜好も変わっていくものだ。
いつまでも人はミニスカートや半ズボンをはいていられるわけではない。
我々は年をとるのだ。少年~青年~壮年~老年と・・・。
死ぬまで、その興味を保っていられる筈も無い。
時は全てを風化させてしまう。
このような間違った初版信仰は1970年代の起こった、
三島由紀夫の初版本ブームが原因になっていると思う。
昨今では、ラノベと言われるもの(まあ挿絵本だな)だのマンガまでもが、
初版、初版と連呼される。これは滑稽である。
人により価値観は異なるが、私の独断で断言するならば、
そこいらの古本(否古書)にそれほどの価値はない。
それらの単なる古本は、結局は工業製品、大量生産品でしかない。
(一般人が見る機会さえない本、存在すら知りえない本ならば、まだしも・・・)
もし価値があるとしても、価値が生じるまで何百年、何千年単位の
時間がかかるだろうし、まあ、酸性紙の(消耗品の)本はそこまでもたないだろう。
滑稽な事に、戦前の好色本(限定本)までも初版とわざわざ明記する
古書店まで存在することだ。(これは煩い客の需要に応じたのか、それとも・・・)
限定本は一度しか刷らないので、初版以外は存在しない。明記する必要は無し。
そんなどうでもいい事は明記せずに、
本の状態を詳細に明記して貰った方が何倍もいいのだが。